池田 信太郎 様 【バドミントン選手】

2013.05.08

プロフィール
名前:池田 信太郎(いけだ しんたろう)
バドミントン選手
1980年 福岡県岡垣町出身
【1996年4月〜1999年3月 九州国際大学付属高等学校】
   1997年 全日本選抜大会 シングルス 第3位
   1998年 インターハイ シングルス 第3位
【1999年4月〜2003年3月 筑波大学体育専門学群】
   2002年 全日本インカレ ダブルス 準優勝
   2003年 バララッド国際大会 ダブルス第3位
【2003年4月〜2009年9月 日本ユニシス株式会社(正社員)】
   2004年 全日本社会人大会 ダブルス 優勝
   2005年 デンマークオープン ダブルス 第3位
        全日本総合選手権大会 ダブルス 第3位
   2006年 日本ランキングサーキット大会 ダブルス 優勝
         トマス杯 日本代表 ベスト8
         世界選手権大会 ダブルス ベスト16
         ヨネックスオープンジャパン ダブルス 第3位
         全日本総合選手権大会 ダブルス 優勝
   2007年 大阪インターナショナルチャレンジ ダブルス 準優勝
         世界選手権大会 ダブルス 第3位
         全日本総合選手権大会 ダブルス 第3位
         ロシアオープン ダブルス 準優勝
   2008年 全英オープン ダブルス 第3位
          北京オリンピック ダブルス 出場
          全日本総合選手権大会 ダブルス 優勝
   2009年 全日本社会人大会 混合ダブルス 優勝
【2009年10月〜2013年3月31日 日本ユニシス株式会社(プロフェッショナル社員)】
   2009年 オランダオープン 混合ダブルス 第3位
         全日本総合選手権大会 混合ダブルス 準優勝
   2010年 日本ランキングサーキット大会 混合ダブルス 優勝
          ベトナムオープン 混合ダブルス 第3位
         オランダオープン 混合ダブルス 準優勝
         全日本総合選手権大会 混合ダブルス 準優勝
   2011年 ドイツオープン 混合ダブルス 準優勝
          スーパーシリーズファイナル 混合ダブルス 第3位
         全日本総合選手権大会 混合ダブルス 優勝
   2012年 シンガポールオープン 混合ダブルス 準優勝
          ロンドンオリンピック 混合ダブルス 出場
         ヨネックスオープンジャパン 混合ダブルス 第3位

以下、〇池田信太郎選手、◆筑波大学

◆この3月31日をもって10年間在籍された日本ユニシスを退社されました。一つの大きなターニングポイントだと思いますが、決断に至った理由をお聞かせください。

〇以前からデンマークのプロリーグでプレーをしてみたいとの願望がありました。今回国内での目標を設定するよりも、海外リーグでプレーする方が今の自分にとって価値があると判断しました。


◆昨年潮田玲子選手とのペアでロンドンオリンピックに出場後、9月のヨネックスオープンジャパン以降は余り大会にエントリーされてなかったので気になっていました。

〇ミックスダブルスはヨネックスオープンジャパンが最後だとお互い話し合っていました。その後は国内のリーグ戦に男子ダブルスで2戦出場してそれが最後の試合になっています。


◆これまでも何度か大きなターニングポイントがあったと思います。例えば2009年4月、男子ダブルスの第一人者だった池田選手が、潮田選手とのペアで混合ダブルスに移られることを決断したときはいかがでしたか。

〇すごく悩みましたが、まだミックスダブルスが国内で強化されていない事や、ロンドン五輪に目標を設定できる事など、多くの『やりがい』がそこにはありました。今振り返ると山あり谷ありでしたが、ロンドン五輪に出場できた事を誇りに思っています。


◆池田選手は北京、ロンドンとオリンピックに2回出場されています。前者は男子ダブルス(坂本修一選手とのペア)、後者は混合ダブルスでした。やはりオリンピックというのは他の大会とは全く違うのでしょうか。

〇全く違います。会場の雰囲気、メディアの数、設営、応援、全てが違います。最高の環境で結果を出す難しさをすごく感じました。それと同時にオリンピックの素晴らしさも肌で感じる事ができました。


◆スポーツは怪我とも隣り合わせです。2009年12月には利き腕の右手首を骨折し2ヶ月ラケットが握れなかったそうですね。混合ダブルスに転身して全日本社会人大会で優勝、全日本総合選手権大会で準優勝と、やっとコンビの息が合い始めてきた時期だったかと思います。

〇怪我をしてラケットを握れなかったですが、それ以外の足りない部分(全体的な筋力アップ)を強化できたと思います。その後少しずつ結果がついてきたので安心しました。


◆こういう時は勿論怪我自体のケアも大切でしょうが、精神的なケアも難しいのではないでしょうか。

〇悩んでいても怪我が良くなるわけではありません。何事もプラス思考!僕のモットーです。


◆なるほど、もっともです。さて、そもそも池田選手がバドミントンを始めるきっかけは何だったのですか。

〇父がクラブのコーチをしていました。その影響で8歳からバドミントンを始めました。


◆重量挙げの三宅宏美選手や、レスリングの浜口京子選手など、父親コーチは厳しいというイメージがありますが。

〇はい、厳しかったです。特に小学校の時は厳しかった印象があります。


◆池田選手にとってバドミントンとはどういう存在でしょうか。今後のビジョンと合わせてお聞かせください。

〇僕にとってバドミントンはパートナーです。バドミントンに出会っていなければ今の僕はいません。物事の考え方や人との出会いなどほとんど全てバドミントンから得たものです。
今後に関しては、現在デンマークリーグに移籍する方向で話が進んでいます。また新たな挑戦のスタートかもしれませんね。


◆話を筑波大学に移します。筑波大学体育専門学群を志望されたのはなぜでしょうか。スポーツに関しては私立の方が勧誘に熱心でしょうし、国立でも同じ九州に鹿屋体育大学もありますよね。

〇筑波大学一本で他の大学に興味はありませんでした。自分の専門種目をする上で専門の知識をより高いレベルで勉強でき競技にいかせる、こんな素晴らしいところは他にはないと思ったからです。


◆大学生活はいかがでしたか。

〇部活中心の生活ではありましたが、良い友人にも恵まれ、楽しい学生生活を送る事ができました。
一番印象的だったのは遠泳で、2時間海で泳いだこと。。。。過酷でしたがあの達成感は今でも忘れられません。


◆福岡出身ということは入寮されたのですね。

〇最初から一人暮らしでした。。。笑


◆バドミントンがあるので、他のサークル活動やアルバイトなどはやらなかったのでしょうか。

〇アルバイトは練習に支障が無い程度に、居酒屋とカラオケ店でやっていました。


◆そうですか、意外ですね。最近は筑波大学に来られたとはありますか。

〇後輩の指導に行ったことがあります。『たいばち』も奇麗になりフリースペースが広くなっていました。歴史博物館?みたいなものがあり自分の写真とサインもあったりして、少し誇らしい気持ちになりました。


◆『たいばち』とは、筑波大学体育ギャラリーですね。そして、歴史博物館は筑波大学ギャラリーの体育・スポーツ展示コーナー。筑波大学は前身校からの長い歴史の中で、数々のスポーツ選手を輩出してきました。日本初のオリンピック出場選手、日本最多のメダル保持者や金メダリストを始めとする日本屈指のオリンピアンたち、また、筑波大学ならではの多岐にわたるスポーツにチャレンジしているアスリートたちの輝かしい軌跡を紹介しています。
【参考リンク:筑波大学ギャラリー】http://www.tsukuba.ac.jp/public/institution/gallery.html


◆筑波大学では将来の社会を背負ってたつ優秀な人材を各界に送り出すための学生支援の一助として、筑波大学基金“TSUKUBA FUTURESHIP”を平成22年4月より運営しております。

〇モチベーションの高い学生に支援をして良い人材を育てる、その人材が在学している学生の目標になっていくと思うので、今後も積極的に支援して欲しいと思います。


◆最後に池田選手から、将来を担う学生に対してメッセージをお願いします。

〇学生の4年間という時間は長いようであっという間に過ぎ去って行きます。社会人になれば学生程自由度も無くなります。だからこそ、この4年間に色々な事を経験し、色々な自分の可能性に気付いて欲しいと思います。あなた自身が行動するかしないかで、自分の人生は変わってきます。『夢を描けば道はみつかる』そう思います。

【参考リンク:池田信太郎Facebook】https://www.facebook.com/shintaroikeda.official
【参考リンク:池田信太郎twitter】https://mobile.twitter.com/Dec27shintaro

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