小川 記代子 様【株式会社産業経済新聞社編集局文化部長】

2014.03.19

プロフィール
名前:小川 記代子(おがわ きよこ)
株式会社産業経済新聞社編集局文化部長
1968年 東京都生まれ
1986年 埼玉県立浦和第一女子高等学校卒業
1990年 筑波大学第二学群人間学類卒業、株式会社産業経済新聞社入社
静岡支局から始まり文化部や東北総局、社会部で記者やデスクとして働く。
産経デジタル出向を経て2013年、編集局文化部長

大学時代を振り返るとき、決まって頭に浮かぶ光景がある。学園東大通り近くの住んでいたアパート2階の窓辺に座り、ベランダ越しに外をぼんやりと眺めている。道を誰かが歩いている。なぜか、その自分のいる光景を俯瞰している。幽体離脱していたのだろうか。天気のいい春の日だった。

私は4年間、ひたすらボーッとしていた。

筑波大学は不思議な大学である。ほかの大学を知らないが、きっとそうだ。みんな親元を離れ、1年生は固まって宿舎で暮らす。宿舎の部屋には勝手に人が入ってきて、風呂も一緒なので裸も知っている。共用棟の風呂に行くとき風呂代を忘れ、共用棟近くの友人の部屋の窓を外から叩き、借りた。人間学類は4年間変わらぬクラスがあって、学年が違う同じクラスの先輩とのタテ関係も密接だった。

世間知らずの常で自意識過剰の私は、この濃密な関係・空間にうろたえた。しかし、知らないうちに渦に呑み込まれた。ひきこもりは許されなかった。宿舎の1人部屋から外に引っ張り出された。そうして、あたかも〝疑似家族〟のような居心地のよい関係にひたっていった。その中では緊張を強いられることもなく、自由気ままにボーッと過ごすことが許された。入学当初はホームシックで公衆電話から実家に電話していたのに、すぐに正月にも盆にも帰省しなくなった。

モノを考える時間だけはたっぷりあった。自分について考え、心理学について(少し)考え、バイトについて考え、将来何をしようかと考えた。本当は心理カウンセラーになるつもりで入学したのだが、どうも向いていないようだと悟り、活字を読むのが好きになり、中でも新聞が好きになった。新聞を作る側になってみたいなあと思い、記者になった。

ボーッとしているがゆえに、記者になって人より前に出なくてはならない現場でウロウロしてしまったりもした。東京から距離があり、現実も怖いモノも知らなかった。知らないからチャレンジできた。新聞社の内定をもらったとき、卒論を指導してくださっていた台利夫先生は「えっ、あなたが」と驚いた。人の前に出る性格ではないことを見抜いておられた。しかし、こう続けられた。「まっ、あなたみたいな記者がいてもいいと思いますよ」。この言葉で二十数年、仕事を続けてこられた。

文系でも必修の情報処理で「Fortran」がまったく分からずコンピューターの前で落涙したり、夜道のループ(※)で自転車をこいでいたら坂を猛スピードで下ってきた自転車と激突しメディカルセンターに運び込まれたりしたが、大学生活できつかった思い出はほとんどない。人生の春休みを満喫したからこそ、社会に出て、多少何かあっても「ま、そんなものだ」と思っていられる。

要はタメを作る時間を許してくれる、懐の深い大学であるということだ。あまりの特異な生活環境に、どんな人も一発、頭を殴られるような衝撃を体験できるだろう。それから、関係が濃密過ぎるがゆえに、他人との距離感を適度に調整する能力が発達する。ちなみに勤務先には筑波大出身者が少なくないのだが、互いにそのことを知っていても、深い交流を結ぶことはない。つかず離れずの距離。こういう関係がとても好きだ。

国立大学も国立大学法人になり、経営合理化や経済効率を軽視しては、運営できない時代になっている。OB、OGが組織化されて大学のために一働きすることも必要不可欠で、筑波大学基金の役割も大きい。それより何より、こんなおもしろいところに飛び込んでくる学生さんがボーッとできる(パワフルに活躍する人はもちろんです)環境を整える手助けはしたい。あんなに春めいた濃密な時間を、私だけでなく多くの人に味わってもらいたいから。

冒頭、眺めていた外の道を歩いていたのが山口香さんだった。大学院にいらした時代だろうか。「あっ、山口香だっ!」と思ったことを覚えている。まったくご面識はないのだが、この印象が強くて、他人には大学の思い出として「部屋から山口香が歩いているのを見た!」と勝手に吹聴している。すみません。

(※)ループ=筑波大学内の環状道路

 

 

【学生宿舎の前にて】

 

 

【産経新聞社新人のころ】

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