土本 武司 様【筑波大学名誉教授・法学博士、元最高検察庁検事】

2014.05.19

プロフィール
名前:土本 武司(つちもと たけし)
筑波大学名誉教授・法学博士、元最高検察庁検事
1935(昭和10)年 東京都出身
1956(昭和31)年 司法試験合格
1957(昭和32)年 中央大学法学部卒業
1960(昭和35)年 検事任官。東京地方検察庁、東京高等検察庁、法務総合研究所、最高検察庁を歴任
1987(昭和62)年 検事在官中に法学博士(学位論文「過失犯の研究」)の学位を受く
1988(昭和63)年 筑波大学教授、オランダ・ライデン大学およびユトレヒト大学客員教授
1998(平成10)年 筑波大学名誉教授、帝京大学教授
2005(平成17)年 白鴎大学法科大学院教授
2007(平成19)年 白鴎大学法科大学院院長

著書に「犯罪捜査」弘文堂1978年、「過失犯の研究」成文堂1986年、「刑事訴訟法入門」有斐閣1987年、「刑事訴訟法要義」有斐閣1991年、「条解刑事訴訟法」弘文堂2003年、「証拠は語る」東京法令出版2007年など多数

◆寄稿メッセージ―“原体験”

私は1977年、最高検察庁の現職検事から、定年を待たずに筑波大学教授に転じた。法律実務界から学界に転身したわけである。当時それは多くあることではなかったが、その前年、検事在任中に法学博士の学位(論文博士)を授かったときも、法律の分野で実務畑からの博士の誕生は珍しいこととして受け止められた。

その時親しい人が祝いの会を開いてくれたが、その際松尾浩也(現)法務省特別顧問(当時は東京大学法学部長)が、祝辞として、かつての学位は論功行賞的な例もあったが、今のそれは“実力博士”であって、その審査は厳しいものである旨を述べたうえ、「かかる快挙を成し遂げるための要因は、一に才能、二に努力であるが、三に“ゲンタイケン”が挙げられる」と述べた。一も二も私にとっては過褒の言葉であるが、それよりも“ゲンタイケン”とは何のことかと訝しがっていると、松尾先生は続いて曰く、「土本さんにとって、原体験は、お若いとき、牧野英一先生の座右にあって、親しくその教えを受けられたことにある」と。―私は自分の気付かない自分を喝破されたような思いがして、愕然とした。

牧野英一、それは犯罪論において主観主義を、刑罰論において教育刑論を標榜する新派刑法理論の花を咲かせただけでなく、全法領域に新風を吹き込み、通徹した論理と新しい思想の融合という大事業を押し進めたわが国法学界の巨星である。

私が学部在学中に司法試験に合格したところ、牧野先生から「急いで仕事に就くことはない。しばらく自分のそばで勉強してみないか」と勧められた。かくして、私は湘南海岸に近い茅ヶ崎の牧野邸で、牧野先生と起居を共にし、書生とも助手ともつかない生活を送ること一年に及んだ。

牧野先生の学問に対する態度は厳しかった。とりわけ論敵に対しては容赦しなかった。牧野先生が打ち立てた学説に対して反論が出されると、先生は間髪を入れずその独特の文体による健筆をもって応酬し、その論争は江湖の研究者を湧かせた。自説の新派刑法学に対立する旧派刑法学に属する学者の言説については、叩きのめさなければ気が済まないとばかり、口を極めて罵った。仮借なきとはこのことを言うのかと思われた。

学者は紳士であり、学問上の論争も紳士的に行われるものと思っていた私の“学者”に対するイメージは完全に破壊された。学問上の争いというのはこんなにも凄まじいものかと慄然とさせられることが再三にわたりあったのである。

牧野先生には弟子が少なかったと言われている。少ないわけではない。“法律の神様”、“語学の神様”とも言われたこの卓越した偉人には優秀な門下生が数多く蝟集したのであるが、牧野先生に学んだ逸材が一人また一人と先生から離れ、反撥し、遂にその敵になっていったのである。刑法学の研究が、民法学のそれと異なり、孤立的、孤高的な性格を有しているということもさることながら、この卓越した才能を持った人の、過度であるほどの厳しさが、弟子達の、この人に従順であろうとする気持ちを凋ませたのであろう。

学問が趣味であり、趣味が学問である牧野先生にとって、通俗の意味での趣味・嗜好といったものはなかったといってよい。強いて言うならば、和歌が余技といえるかもしれない。しかし、これとても、和歌の大家・佐々木信綱氏を師として風格のある歌を作っておられたから、もはや余技の域を超していたといえよう。昭和三三年の宮中歌会始(御題「雲」)には召人に選任され、次の召歌を献上された。

  
   大いなりや丹雲のなびき海ばらはしほぢゆたかに夜明けむとして

 もう一首、披露しておこう。

   うつくしき娘の白きうなじより肩に流るる線のやさしさ

東京から茅ヶ崎への車中で乗り合わせた相客のことを歌ったものらしい。あの牧野先生がとほほえましくなる。

さて、私が牧野邸に住みついたのは前述したように、牧野先生の誘いによるものであったが、先生は私に丁寧に刑法を教授したのではない。散歩好きの先生は、よく私を供にして近所の雑木林や海岸を逍遥したが、その途中や帰宅後の縁側で、私に熱っぽく説き聞かせたのは、哲学、宗教、歴史、文学などであった。私は汲めども尽きぬ先生の造詣の深さに圧倒されると同時に、牧野法学の源泉は法学以外の豊かな地下水にあることを思い知らされた。

また牧野先生は、私を慈父のごとく優しく遇したわけでない。それどころか、ことごとに私を叱り飛ばした。私は牧野先生のような大学者は学問以外のことは無関心、無頓着であろうと思っていたが、牧野先生の場合はその逆で、諸事万端、細心で厳格であった。私の担当である書籍の整理や検索がちょっとでも間違ったり遅れたりすると、叱声が私の頭上にふりかかった。それだけではない。電話のかけ方、箸の上げ下ろしなど、日常生活の些事に至るまで、先生の流儀に従わなければ雷が落ちた。今でも、その一齣一齣を思い出すと、唇を噛みしめたくなるほどである。

しかし、私の内で生きているのは、ただひたすらに学問に打ち込む牧野先生の姿勢である。当時すでに一線を退いていたのに、学問するペースはいささかも緩めず、「読むに従って書き、考へるに従って書き、論難せらるところに就いて則ち書き、支持を受けるところに就いて又則ち書く」(牧野英一・学究生活の思い出)という学問一筋の態度を九二歳で逝去するその直前まで続けた。

かつての牧野先生の最優秀の弟子で、その後牧野先生の最大の論敵となった小野清一郎博士が、牧野先生の葬儀において、「今私の瞼に浮かぶのは、研究室で傍目もふらず文献と取り組み、思索し、そして執筆された先生の姿である。先生は一学究であることを誇りとし、あらゆる俗務を敬遠して寸時を惜しみ、学問に没頭された」と追憶されたのであるが、正に牧野先生の生きざまを活写しているといえよう。

私が牧野先生から学んだ最大のことは、“克己”の精神であった。検事、学者生活を通じて、まがりなりにも学問的情熱を燃焼し続けたのは、そしてその間他人と妥協しても自分との妥協は許さないことをモットーとして、それを筑波大学の学生にも態度で示してきたのは、牧野先生の生きざまに触れたことが、烈しくも厳しい“原体験”として、私の内で深く息づいているからであろう。原点はここにあり。これを見抜いた松尾先生の慧眼にも、また恐れ入ったというべきか。

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