垣根 涼介 様(本名:西山 陽一郎 様) 【作家】

2014.10.01

垣根 涼介 様(本名:西山 陽一郎 様) プロフィール
名前:垣根 涼介(かきね りょうすけ)
作家
1966年 長崎県諫早市生まれ
1985年 長崎県立諫早高等学校卒業、筑波大学第二学群人間学類入学
1989年 筑波大学第二学群人間学類卒業、リクルート入社
その後、専門商社、近畿日本ツーリストを経て、2000年に初めて本格的に書いた『午前三時のルースター』でサントリーミステリー大賞・読者賞をダブル受賞し作家デビュー
2004年には『ワイルド・ソウル』で大藪春彦賞、吉川英治文学新人賞、日本推理作家協会賞を受賞し、史上初の三冠受賞に輝く
2005年には『君たちに明日はない』で山本周五郎賞受賞、これはシリーズ化され2014年『迷子の王様 君たちに明日はない5』にて完結
最近は歴史小説に軸足を移し、2013年には確率論「ベイズの定理」から明智光秀にアプローチした『光秀の定理』を発表

銭金で政治が動くのを子供の頃からみていました
◆長崎県諫早市のご出身ですね。
〇ド田舎です。近所には牛を飼っている家もありました。僕の家は高台にあったのですが、窓からは海が見えました。
◆今でもたまに実家には行かれますか。
〇冠婚葬祭だけですね。気分が悪いんですよ。原風景が変わってしまって。飛行機で降りるときに有明海が見えるのですが、ギロチン(諫早湾干拓事業で構築した約7kmに及ぶ潮受堤防)の内と外で海の色が違うのです。堤防の内側は本明川の水を溜めているからヘドロだらけなのです。臭いですよ。海沿いの国道に栄えていた店はほとんど閉められ、干拓で海は埋め立てられ、その国道は今や土沿いとなっています。東京湾が埋め立てられて船が泥の中に浮いているようなものです。自分の生まれ故郷がそんな風になっているのを見るのは、本当に悲しいし、胸糞が悪い。勿論今や実家の窓に海はありません。防潮堤の先も地続きになった平地があるだけです。
◆諫早湾干拓事業問題を子供の頃からみてきたわけですね。
〇干拓工事が始まったのは僕が諫早を出てしまった1989年からですが、小学生の頃から揉めていました。そもそもは戦後間もなくの米不足を解消するために発案された干拓計画です。ところがその後米は反対に余り出しました。だからといって、簡単に「では止めましょう」とはいきません。いろいろな利権が絡んでいますから。県、土木業者、農協、漁協・・・。実態はもっともっと複雑です。例えば工事が行われればその時だけですが雇用が生まれます。そしてそれを呼び水にして票田を獲ろうとする代議士がいます。いろいろな欲望が渦巻いていました。その欲望のなれの果てが今ある諫早湾であり堤防です。
◆モラルが崩れてきているのでしょうか。
〇今も昔もモラルが高かったと言い切れる時代はありません。たまたま昭和というシステムの中では成長路線にのって全てが順調に発達していただけです。財源も潤沢にあったし、癒着も大して問題になりませんでした。それが平成のシステムになってからは政府の指針や財源の歪みが顕在化してきました。昭和も平成もモラルは総じて高くありません。そしてそういう歪みは辺境に出るのです。東京には出ないのです。諫早然り、沖縄然り。ある意味こうした欲望や利害が絡み合った巨大な有機体が国家なのです。だからといって国家が駄目だと言っているわけではありません。国家は僕ら個人の欲望の代弁者の集合体です。だから当然矛盾もあるし、ある意味では仕様がないのです。国家がなければ国体を成しませんから。そういうことを伝えたくて書いたのが、戦後のブラジル棄民政策と、その彼らの復讐譚を描いた『ワイルド・ソウル』です。

垣根涼介 氏


授業料も生活費も自分で稼ぎました
◆なぜ筑波大学に入られたのですか。
〇貧乏でお金がなかったからです。筑波大学は国立で、かつ安く入れる学生寮があるのが魅力でした。ただ親には「何で九大に行かないの」と言われました。最終的に親の反対を押し切って筑波大に行ったこともあり、入学金だけ払ってもらい、授業料や生活費は自分で稼ぎました。
◆現在筑波大学基金は学生への経済支援のメニューも用意されています。
〇当時僕は日本育英会の奨学金を借りて、就職後何年かかけて返還しました。選択の幅が広がったのはいいことだと思います。
◆筑波大学では人間学類で心理学を専攻されました。
〇筑波大学を選んだ本当の理由はそれです。言語心理学がやりたかったのです。当時本格的に心理学を学べるところが筑波大しかありませんでした。他大学は文学部や教育学部の中に学科や専攻レベルで心理学が学べる程度でした。ところが入学してからわかったのですが、実はその当時筑波大学には言語心理学の先生がいなかったんですよ。だから社会心理学の先生の卒論ゼミに入れてもらい、そこで独学で言語心理学の本を何冊か読んで卒論を書きました。
◆大学時代はバイトとバイクに明け暮れたそうですね。
〇それ以前からギア付きの原付には乗っていたのですが、大学一年目には中型免許をとって、新車で中型のバイクを買いました。勿論ローンです。そしてバイクにはまってしまいました。夏休みに関しては、1年のときはほぼバイトに明け暮れ、2年はまず日本をぐるっと周って、3年のときにその中で一番気に入った北海道を再度周りました。冬休みや春休みも九州や四国などに行きました。1年のうち3ヶ月はツーリングに出ていたと思います。多分能登半島と紀伊半島の南側以外はほぼ走破したんじゃないかな。だからバイトはいろいろやりました。ただでさえ授業料と生活費を稼がなければならないのに、更にバイクのローンやツーリング費用もつくらなければならない。家庭教師をはじめ、筑波サーキットでのラップ計測、日本自動車研究所での走行データをとるための試乗、旅館での皿洗いと布団敷き、配送センター倉庫での荷運び・・・。金のいい仕事を求めていったらどんどん肉体労働化していきました。一番給料が良かったのは土方仕事でしたね。小貝川の決壊防止のための護岸工事の土方を、夏休みのうだるような暑さの中で汗だくになりながらやりました。かけもちで朝から晩まで働き続け、過労と睡眠不足から倒れたこともありました。
◆心理学よりも楽しいものを見つけてしまったのですね。
〇心理学をやるために筑波大に入ったのに、そんなに一所懸命勉強はしなかったですね。ただ言語心理学はやってよかったと思っていますし、結果的に今の仕事にも繋がっていると思います。
◆大学時代は小説を読んだり、書いたりはしなかったのですか。
〇1年のときは学生宿舎に入ったのですが、2年からは友人と2人で小さな一戸建てを借りてシェアしました。廊下を挟んで2部屋あるタイプです。彼は文学好きで部屋にはその手の本がいろいろありました。一方僕の部屋はバイクやツーリングの本ばかりです。彼は「最低これだけは読んでおいた方がいい」と言って、ピックアップした本を貸してくれました。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』、『国盗り物語』、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』、山田詠美の『蝶々の纏足』、村上春樹の『1973年のピンボール』などです。彼は文学仲間と文学談議をよくやっていました。そんな彼がある時「同人誌をつくるからお前も書け」と言ってきました。僕は嫌だと言って断ったのですが、「1ヶ月飯つくってやるから」という甘い言葉に負けて、結局書くことにしました。
◆何を書かれたのですか。
〇ツーリングです。津軽半島の龍飛埼から岩木山に抜けていくとき土砂降りの雨にあって、その時入ったガソリンスタンドでの出来事を書きました。人のいいおばちゃんが出てきて、びしょ濡れの僕に旦那の服を貸してくれたり、メロンを出してくれたり・・・そういう話を書きました。
◆書いたのはそれが初めてですか。
〇全くの初めてです。ただ愕然としたのは、あれだけ偉そうに文学談議を闘わせていた人間たちの作品がみんな大したことなかったことです。事実、僕が書いたものの評判が最も良かった。
◆それからは書かなかったのですか。
〇書きませんでした。1回きりです。
『君たちに明日はない』シリーズの主人公、村上真介は筑波大学出身ですね。
〇筑波大学は「程がよい」大学なんです。東大、京大、早大、慶大などは大学のイメージが強すぎる。そうかと言ってリストラ面接官という仕事上、余り二流、三流の大学でも宜しくない。学力にしても特色にしても「程がよい」大学だったので、筑波大学出身という設定にしました。勿論自分の出身大学なのでよく知っているというのもありますが。「程がよい」というベースがあれば、あとは本人次第だし、自由度が高いと思います。だから村上真介も僕も筑波大学を選んで良かったと思っています。

垣根涼介 氏











お金が必要だったから作家になりました
◆卒業後は民間企業に就職されたのですか。
〇はい、リクルートに就職しました。「トラバーユ」、「ビーイング」、「テクノロジービーイング」という求人情報3誌の担当となり、広告をつくる仕事をしました。取材して、インタビューして、コピーを書くというのを毎日やる。それも3誌受け持っているので毎週3回締切りがやってくる。朝8時には会社に行って夜中の12時過ぎまで働く。そんな毎日でした。入社当時2.0あった視力は半年で0.6になり、ストレスで胃痛になりました。正直しんどかったのもありますが、このまま続けても専門的な技量がつかないとも感じ、結局2年でリクルートを退職しました。特に何をやりたいのかもわからず、預金通帳には400万円貯まっていたこともあり、退職後1年間はぷらぷらしていました。上野のバイクショップで10万のおんぼろバイクを買ってエンジンを載せ換えたり、泳ぎに行ったり、ビリヤードをしたり、そんなことで一年を過ごしました。
◆その後の旅行会社には7年半勤務されたそうですね。
〇正確には間に半年の商社勤務を経て、近畿日本ツーリストに入りました。業界団体や奉仕団体などへの視察旅行の企画・立案を行いました。その仕事では売上目標ではなく収益目標がはっきりと示されます。100億円売り上げて1億円の粗利を稼ぐ者よりも50億円売り上げて2億円の粗利を稼ぐ者の方が偉いというように基準が明確でした。シビアといえばシビアです。達成できないときは糞味噌言われますが、粗利目標さえきっちりクリアしていれば問題ない。きつかったですが常に自分がどれだけの利益を生み出しているのかを考える癖ができました。目標が明確で自己責任が徹底していた点と、ある程度の裁量が与えられていた点がやり易かったのか、結果的に7年半勤めることになりました。
◆なぜサラリーマンから作家に転身されたのですか。
〇直接的な理由は金です。お金が必要になったからです。28歳のときにゆとり返済でマンションを買いました。そしたらその後不景気になり給料が減り始めました。更に水戸から大宮に転勤となり、マンションは賃貸に出したのですが、数年後にはローン返済額が上がるため賃料収入では賄えない。給料も更に下がる。このままでは自己破産だと思い、当時最も賞金が高かったサントリーミステリー大賞に応募しようと思い書き始めました。帰宅後の夜12時過ぎから2時過ぎまで、2年間書き続けました。
◆でも単にお金が必要という理由ならば他にも選択肢があったのではないでしょうか。
〇その通りです。直接的な理由と素地を分けて考える必要があるでしょう。今思えば大学時代からうっすらと物書きになりたい意識はあったのだと思います。無意識でしたが。そうでなければ専門の教授がいないのに敢えて言語心理学なんてやらないし、強要されたとはいえ同人誌に寄稿したりしませんよね。更にリクルート時代は仕事上の理由とはいえ年間300冊以上の本を読みましたし、それ以降も本は読んでいました。そういう意味ではベースや素地は、書こうと思ったその時にはかなり蓄積されていたのです。だから懸賞小説に応募しました。こうして書き上げたのが『午前三時のルースター』です。

垣根涼介 氏

銭金よりも大事なこと、自分にとって意味のあることを見つけてください
◆昨年は初めての歴史小説『光秀の定理』が出版されました。
〇歴史小説を書くということは随分前から念頭にありました。好きなんですね。だから作家としてデビューした頃から考えていました。そして『ワイルド・ソウル』で一定の評価を得ることができて、これであと10年はプロの作家としてやっていけると感じ、歴史小説に移行する準備を進めました。自分なりの歴史認証を作り上げるには最低でも10年はかかると思い、資料や文献、仏教書などを調べたり、読んだりしてきました。
◆その歴史小説の第一弾ですが、なぜ明智光秀を選ばれたのですか。
〇光秀が好きだからです。光秀は実は結構良いことをやっているのです。福知山では善政を施し、比叡山の焼き討ちに関してはあの信長に反対したりと。だから光秀は部下から慕われていました。山崎の合戦では明智軍は誰も逃げず、光秀に従って死んでいきました。それと光秀は正室の熙子が生きている間は側室を設けなかったのです。あの時代に珍しいことです。そんな現代にも通じるモダンな感性を持っていた光秀を書きたかったのです。
◆これからも面白い作品を書き続けてください。
〇はい。でもそれって結構つらいんですよ。書くこと、意味を持って書くことは99%が苦しみです。基本的に自分にとって意味がある仕事で楽な仕事はないのです。自分にとって意味があればあるほどきついです。でも辞められない。なぜならばそれは自分にとって意味を感じているから。だから僕にとって書くということは苦悶の連続です。毎日もがきながら書いています。そんな苦しみの中から、「あれっ、俺こんなこと考えていたんだ」と解る瞬間があります。自分が何者かが見えることがあります。熱が足りないと更なる深度には達しないのです。そういうわずか1%の意味を発見するために書き続けています。
◆最後に今の学生に対してメッセージをお願いします。
〇日本語をしっかりと勉強してください。まずは日本語でちゃんと論理を組み立てられる人間になってください。そして自分の考え、感じ方をしっかりと育ててください。そうでない人間が英語や外国語を学んでも、薄っぺらいことしか話せません。例え英語が話せなくても一流の通訳を雇えば代用できます。それよりもまずは自分の考えをしっかりと日本語で組み立てられるようになることの方が重要です。よくグローバリズムと言いますが、何も英語が話せるのがグローバリズムではありません。グローバリズムとは結局アメリカのローカルルールのことにしか過ぎません。弱肉強食であり銭金がすべての世界です。もっと独自の日本のやり方、あるいは自分の生き方を掘り下げるのが僕は大事だと思います。筑波大学にしても然り、皆さん自身にしても然り。大学の4年間はボーっとして、自分自身にとって意味のあることを考えてみたり、好きなことをひたすらやり続ける時間に充てても良いのではと思います。

取材スタッフとの記念撮影
取材スタッフとの記念撮影に、気さくに応じる垣根氏(中央)

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