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淺野 茂生 様【JFEスチール株式会社ムンバイ事務所長、JFE STEEL INDIA Private Limited 取締役、ムンバイ日本人会理事、中小企業診断士】

2014.11.05

淺野 茂生 様 プロフィール
名前:淺野 茂生(あさの しげお)
JFEスチール株式会社ムンバイ事務所長
JFE STEEL INDIA Private Limited 取締役
ムンバイ日本人会理事
中小企業診断士

1965年 茨城県久慈郡大子町生まれ
1984年 茨城県立水戸第一高等学校卒業
1988年 筑波大学第三学群国際関係学類卒業
1988年 日本鋼管株式会社(同6月NKKに社名変更)入社、福山製鉄所に配属
1996年秋 東京本社に異動
1997年 つくば市に自宅建設用の土地購入
2003年 NKKと川崎製鉄が統合、JFEスチール株式会社誕生
2005年 中国広州市、広州JFE鋼板有限公司(GJSS)出向
2008年秋 帰国しJFEスチール株式会社に復帰
2012年 つくば市春風台に自宅建設(土地取得から15年後)
     国際関係(国際総合)学類30期入学記念写真イベント主催
2014年 4月インド ムンバイ市赴任、現職

2012年4月、筑波山を借景にした幅12mの「景観緑地」が南北に広がり将来の豊かな緑陰形成を企図した景観樹がそこに植えられた緑住・緑住農街区を持つ、つくば市「春風台」で卒業以来の夢であった「自宅をつくばに建てて暮らし、仕事は都心に通う」生活を実現させました。
 
自宅の素材には生まれ故郷の大子町がある八溝山系の無垢の杉を使い、太陽熱を発電と給湯に利用し自然光と通風を最大限に取り入れたパッシブソーラーと呼ばれる設計で、小さな薪ストーブも付けて近所の方々と緑の維持管理と薪作りを楽しみながら、つくば駅まで車で約15分を妻に毎日送迎してもらって、つくばエクスプレスで日比谷まで約2時間弱の長距離通勤をするという生活を楽しんでいました。

 自宅と「景観緑地」
 自宅と「景観緑地」

ところが、ちょうど新築から2年を過ごし今冬の薪の手配と乾燥の準備を済ませた所で異動の辞令を受け、今年(2014年)4月からインドのムンバイ市に駐在。7月に妻と愛猫ホームズを呼び寄せ当地での生活を始めています。
 
ムンバイ市はインド最大の都市で人口約1,300万人。アカデミー賞を受賞した「スラムドッグミリオネア」の舞台となった街(今住んでいるアパート群は同映画の中でも重要なシーンで撮影に使われました)で、ボリウッドと呼ばれる映画の都でありつつ、同映画内でもキーポイントとして登場する世界遺産のチャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅や当時のインド皇帝だった英国ジョージ5世のムンバイ訪問記念に建立されたインド門、ヒンドゥー教石窟寺院があるエレファンタ島といった豊かな歴史のある都市です。

ムンバイ世界遺産「CST駅」
ムンバイ世界遺産「CST駅」

宗教的にも大部分のヒンドゥー教徒に加えて、イスラム教徒、キリスト教徒、シーク教徒、ジャイナ教徒等が混在しています。中でも数は少ないながらインドのゾロアスター教(拝火教)徒の多くが住んでいる地域でもあり、彼らはパールシー(ペルシアから来た人の意味)と呼ばれ少数派ながら富裕層が多く、世界一高額な個人邸宅といわれるリライアンスグループ会長宅ビル等がある超高級住宅街の一角の広大な森の中に「河童が覗いたインド」(妹尾河童)で詳しく描写されている「沈黙の塔」という「鳥葬」の施設を持っています。「鳥葬」の施設
 
 一方、人口密度が極めて高く「オートリクシャー(人力車が語源)」と呼ばれる3輪バイクタクシーが至る所で走り回り、道路は車と人と牛と犬でごった返し、貧富の差が極めて大きな混沌とした大都市でもあります。

ムンバイ北部の通勤道路 
ムンバイ北部の通勤道路

これだけの大都市ですが、日本人は約700名弱、日本人学校の生徒も小中学生全員で約30名しかいません。しかし、現在でこそこの人数ですが、昭和初期の最盛期には約3,000人もの日本人がこの地に住み、この地で天寿を全うされた方も多く、現在でも日本人墓地があり、代々日本人住職がそれを守って下さっています。

ドービー・ガートと呼ばれるムンバイの巨大な洗濯場と背景のビル群
ドービー・ガートと呼ばれるムンバイの巨大な洗濯場と背景のビル群

大学受験当時「国際関係」という響きに夢とロマンを感じ、具体的に何かを勉強したいかという事よりもきっと何か面白い事や面白い人に出会えるに違いないという大いなる「思い込み」で国際関係学類(以下、国関)を選び、とにかく「ここしかない」と決めていたので大学は国関しか受験しませんでした。

(国関初代の先輩方は国立入試後の4月に40倍という倍率で入学されたので)我々2期生は共通一次を経て入学する初めての世代でした。高校時代に修学旅行がなかったので(その代わり昼夜を徹して70kmを歩き最後の20kmはマラソン競争という「夜のピクニック」(恩田陸)がありました)それまで新幹線にも乗ったことがなかったのですが、いきなり海外生活経験者や帰国子女が過半数以上といういわゆる「国関」的世界に放りこまれ、ユニークな約40人の同級生、個性的な先生、先輩後輩の皆さんに恵まれ、サークル活動に選んだ舞踏研究会と合わせて極めて刺激的かつ濃密な4年間を「思い込み」以上に過ごすことができました。ただ、つくばにはあまりにも「面白い」事が溢れていて4年間ではとても味わい尽くせず、またこれからもっともっと「面白く」なるだろうと確信していたので、就職してからも時々はつくばに帰り、いつか将来はつくばに家を建てようと決心していました。

ところが、就職して配属されたのはとても週末つくばに遊びに戻れる様な距離ではない広島県福山市の製鉄所でした。この地で妻と出会い8年半を過ごし、長くつくばからは離れた生活をしていましたが、東京本社勤務となった翌年(97年)、すぐにつくばに土地探しに来ました。そこで最初に入った不動産屋さんで現在の「春風台」の前身となる「緑・住・農」が一体となった宅地開発計画を聞き、まだつくばエクスプレスが「常磐新線」と呼ばれていて20世紀中には必ず開通すると夢が語られていた時代、あえてその沿線ではなく駅から離れていることと大学に非常に近いことが自分にとっては逆に大きな魅力で、またここでも「思い込み」の国関入試と同様に他の不動産屋さんを見る事なく、宅地開発されれば必ずそれ以上の価値が出るはずだと信じて当時の宅地価格レベルで「山林」を即決購入しました。

しかし、そこからが苦難の道の始まりでした。20世紀中には開通すると言われていた常磐新線は世紀末になっても影も形も見えず、その上買った土地の近くから「遺跡」(金田官衙遺跡:奈良〜平安時代の役所跡)が出土、宅地開発は中断。常磐新線も通らず宅地もできないままに21世紀に突入。「土地転がしに騙されたんじゃないのか?」という悪意なき友人の心配をよそに、常磐新線は2001年に「つくばエクスプレス(以下、TX)」と正式名称が決定、2005年には遂に開通しました。その間勤務先は統合(03年)し、翌々年中国に派遣され約4年間中国広州市で勤務。流石にTXも開通し遺跡問題も解決したと聞いていたので、帰国(08年)後すぐに家が建てられると思っていたら…まだ工事は終わらず。なんと今度は「オオタカ」の生息地が見つかったと。

中国広州市の勤務先にて 
中国広州市の勤務先にて

結局、家が建てられたのはそれから4年後の2012年、山林購入から実に15年目の事でした。いざ宅地造成〜換地が終わってみると、緑住・緑住農街区の中で最小、地価は15年前の想定から大幅に下落して含み損、こんなことなら宅地化されてから買えば良かったじゃないという妻の指摘には「これが男のロマンだから」と訳の分からない言い訳をし、なんとか最短で家を建てて「春風台」最初の住人となるという事だけが、15年前から準備してきたせめてもの証になりました。

この年(2012年)は、国関開設30年目に当たり第30期の新入生を迎える節目の年でした。家を建てた勢いのまま、個人的にこの頃から広まり始めたfacebookで卒業生に声をかけ、世話人を集め、1期から30期まで各学年1人でもいいから全期揃って記念写真を撮ろうというイベントを企画。残念ながら全期揃いは叶いませんでしたが、家族を含め100名以上のOB・OGと現役生が揃って、卒業生のフォトグラファーに写真撮影してもらうという「想い」は達成することができました。

国関30期入学記念写真イベント
国関30期入学記念写真イベント
 
僅か2年しか住めずに海外駐在となった春風台の小さな家ですが、古武道の個人稽古やいつかは「寺子屋」の様なことでもできればと願って「プチ道場」と称する書斎兼用の多目的スペースを作って持っています。お貸しした方が地域のために使って頂ければと思っていた所、まさに望んでいた通りの「ご近所の皆さんとお茶会をする場」とし、とても有り難い使い方をして下さっている写真を送って頂きました。

お貸しした自宅の「プチ道場」でのご近所さんのお茶会風景
お貸しした自宅の「プチ道場」でのご近所さんのお茶会風景

たまたま、自分たちは子供に恵まれずこの自宅で子育てをするという夢は叶いませんでしたが、逆にそれが人生を深く考える一つのきっかけになりました。そして今では、生物学的なDNAだけではない何かを後世に「つないで」いく事が人生の意味ではないかと考える様になりました。
 
それを強く意識する様になってから、自宅建設を機により一層同窓会活動や地域社会活動に積極的に関わる様になりました。たまたま自治会長として地域の小学校の運動会に招かれた時には大変感動をしました。子供が居ないのでそれまで小学校の運動会を観に行くという経験がなかったこともありますが、こういう子供達を親ではない立場で成長の手助けをする様なことができればと心から願う様になりました。また、今ムンバイでは日本人会理事という立場で日本人学校の支援や親睦会活動に携わっています。また、古武道(薬丸野太刀自顕流)の稽古を通じて次の世代を育てる活動にも関わっています。以前ベトナムでの演武に参加させて頂きました。いつかインドで演武をすることが夢の一つです。

「筑波大学基金 TSUKUBA FUTURESHIP」というのは、こうした次の世代に「つないでいく」大学の活動を支援したいというOB・OGを始めとする関係者の気持ちの受け皿としても素晴らしい試みだと感じます。自分にとっても、つくばに住んでまだまだこれからもっと「面白い」ことを見つけて、それを次に「つないでいく」ためのコアは筑波大学にあると確信しています。そのコアを豊かで実りあるものにするための「基金」活動に心から賛同致します。

自宅前での古武道(薬丸野太刀自顕流)門人仲間との臨時稽古風景
自宅前での古武道(薬丸野太刀自顕流)門人仲間との臨時稽古風景

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