三屋 裕子 様 【元バレーボール日本代表、株式会社サイファ代表取締役】

2013.9.18
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プロフィール

名前:三屋 裕子(みつや ゆうこ)
元バレーボール日本代表、株式会社サイファ代表取締役
1958年 福井県勝山市出身
1977年 八王子実践高等学校卒業、筑波大学体育専門学群入学
     ユニバーシアードに3回出場し、在学中の1979年に全日本入り
1981年 筑波大学体育専門学群卒業、日立製作所入社
     日立及び全日本の主軸選手として活躍
     1981年ワールドカップ2位、1983年アジア選手権優勝、1984年ロサンゼルスオリンピック銅メダルなど
1984年 日立製作所退社
     その後、國學院高等学校教員、学習院大学講師、全日本ジュニア女子コーチなどを歴任
1990年 筑波スポーツ科学研究所主任研究員就任、筑波大学非常勤講師就任
     その後、東京学芸大非常勤講師なども兼任
1992年 筑波大学大学院修士課程体育研究科入学
     その後、慶應義塾大学非常勤講師なども兼任
1994年 筑波大学大学院修士課程体育研究科修了、株式会社サイファ設立
1998年 筑波スポーツ科学研究所副所長就任
     その後、株式会社シャルレ代表取締役社長、株式会社テン・アローズ代表執行役社長、社団法人日本プロサッカーリーグ理事なども兼任
2007年 財団法人日本バレーボール協会理事
2013年 公益財団法人日本体育協会日本スポーツ少年団副本部長

◆2020年夏季オリンピックの開催地に、東京が決まりました。

とても喜ばしいことだと思います。私自身1964年の東京オリンピックの時は生まれてはいましたが、記憶にないので楽しみです。
また、近年閉塞感が蔓延していた日本に、明るい希望をもたらせたと思います。これをきっかけに、一つステップアップした日本がデザインできればいいなぁと思っています。

 


◆三屋さんご自身は1984年ロサンゼルスオリンピックに出場され、銅メダルを獲得されました。

この結果については、当時満足してはいませんでした。というのも、女子バレーは1964年にオリンピック正式種目になってから、1976年のモントリオールまでは全て決勝に進んでいて、悪くても銀メダルという競技でしたので、「史上最低の銅メダル」だと思っていました。
た だ、オリンピックを経験して得たものは、大きかったと思います。何よりも人に勝つ前に自分に勝つことを、教えてもらったと思います。また世界選手権やワー ルドカップという単一種目による世界大会(サッカーは別格として)とは周囲の熱狂度がはるかに違い、そのエネルギーに押しつぶされそうになりながらプレー したことも、今となってはいい思い出です。
 

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◆本当はその前の1980年モスクワオリンピックも出ていたはずでしたね。

 

1979年に開催されたプレオリンピックで、日本は優勝しました。また1980年に入ってからもライバルと言われたチームに対して、対戦成績が非常 に良かった状態で、さあ後2ヶ月余りでオリンピック、という時に政府がボイコットを宣言しました。自分たちの努力の外にある大きな力で、無理やり夢を引き 裂かれました。

 

  死に物狂いで努力すれば、なんとかなる・・・
  諦めなければ、夢は叶う・・・
  練習はうそをつかない・・・

 

そんな言葉を信じることができなくなりました。だから、当時大学4年生だった私は、卒業したら学校の先生になることを決めました。いくら努力しても、叶わない夢もある、そんな気持ちだったと思います。
た だ、また再びバレーをしようと決意したのは、大学でのバレーも引退し、卒論を書きながら、あんなに辛い練習をしてきたのは、世界で戦うためだったのに、そ れをしないまま終わっていいのか、ということを自問自答し、卒論を提出した日でした。オリンピック前の本当に泣きながら、這いずり回るような練習をしてき て、それをそのままにしていいのか、という気持ちがどこかにあったからだと思います。

 


◆そもそも三屋さんがバレーボールを始めるきっかけは何だったのでしょうか。

 

背が高かったからです。中学入学する時に既に170cmありました。ただ当時それが大嫌いでした。小学校の時はイジメにもあったし、着たい洋服が着ることができない、履きたい靴も履けない、そんな自分が大嫌いでした。
そんな劣等感満載の私に、当時バレー部の監督だった先生が、「いくら自分の身長が嫌でも、一生それと付き合っていかないといけない。イヤだと思えばただの欠点、使えば財産に変わる可能性が生まれる。人間考え方一つで人生も変わるんだぞ!」
「こんなもの、何に使えるんですか?」
「バレーやれ、バレーやったら、欠点だと思っていたものが財産に変わる。」
この言葉で、私の人生決まりました!

 


◆そして女子バレーボールの名門、八王子実践高校に入学されました。

 

中学では、陸上とバレーのかけもちをしながら、どちらも県大会に出るような選手でしたが、たまたま出ることができた全国大会で、技術は下手だけど ジャンプ力がある、というだけでいくつかの高校から声をかけていただき、その中で当時日本一だった八王子実践高校に進学しました。
どこからか湧いてきた根拠のない自信によって、東京に出ることは大反対だった両親を最後振り切るようにして上京しましたが、あっという間に後悔につながりました。
県 で一番、そんな人が集まるところが八王子実践高校でした。福井県では一番で、エリートと呼ばれたけれど、八王子実践高校ではただの凡人、いや凡人以下でし た。そこに悪いことに怪我が重なり、それ以降怪我との戦いのような高校生活で、将来オリンピックだとか全日本だとかをイメージすることができませんでした。

 


◆筑波大学を選ばれた理由は何ですか。確か当時は女子バレーと言えば日本体育大学が圧倒的に強かった時代で、筑波大学はそれ程強くなかったと記憶していますが。

 

幼いころから両親からは将来は学校の先生になれ、と言われて育ったこともあり、また高校を卒業したら他の選手のように実業団には行かず大学に進学することを高校入学当時から考えていたこともあり、迷わず高校3年生のときには進学を志望していました。
いくつかの大学を考え、見学をさせていただき、最後に見学に行ったのが筑波大学でした。つまり、実はその当時筑波大学は第3志望でした。ただ、見学に行っていきなり第1志望となりました。それは、可能性がいっぱいある大学だなぁということを感じたからです。
見学の際説明をしてくださった、当時のバレー部長の先生からの言葉の端々に「これから・・・になります」というものがあり、それまで見学してきた大学の、「うちの大学の、・・・です」というものよりそれは、はるかに魅力的なものに聞こえたからでした。
開学してまだ3年、我々が入って初めて全学年がそろう、筑波大学の礎のかけらの一つにでもなることができるかもしれない、そんなワクワクした思いと、この大学で自分がどこまでできるか試してみたい、そんな思いもあったように思います。

 


◆実際に筑波大学女子バレーボール部に入ってみていかがでしたか。

 

大学時代、それもバレー部のことは書いても書きつくせないほど、たくさんの思い出があります。
当時の筑波大学のバレー部は、高校時代に全国 大会に出た選手と、公立高校で部活動としてバレーをやっていた選手の混在で、むしろ後者の方が多い構成の中、体育大学とのリーグ戦やインカレなどは厳し かったです。また体育館も総合体育館一つで、バスケット男女とバレー男女が分け合って使用する、といった環境面でも厳しいものがありました。
ただ、「君たちには、頭というものがあるんだぞ。スポーツとは頭を使ってやるもんだ」といつも言われ、結果に対して環境や人のせいにしないということを教えていただいたのも、筑波での思い出です。
たくさんあり過ぎて、かえって書くことができません、すみません 

 


◆そして三屋さんは大学3年(1979年)で全日本入りされています。

 

大学1年の時にユニバーシアードの日本代表に選んでいただきましたが、最下級生で何もできずに終わりました。そして3年生の時は春・秋のリーグ戦で はスパイク賞・ブロック賞とダブルで連続受賞と非常に充実していた時期で、その年に開催されたメキシコのユニバーシアードで、各国がナショナルチームで参 加している中で銀メダルをとることができました。その際の活躍が認められて、全日本から声をかけていただきました。
ただ、卒業後は先生になることを願っていた両親にそのことを伝えたら、母が、「その、全日本というものは、断ることができないのか」と、誰もが驚くことを言い、バレー部の監督に伝えたら絶句していたことを思い出すと、今でも笑えます。

 


◆バレーボール以外で何か大学時代の思い出やエピソードで覚えていることはありますか。

 

高校時代は、本当にバレー中心で、勉強は授業とテスト勉強くらいでした。それが、当時まだ国立一期、二期と言われ、センター試験も共通一次試験もなかった頃で、厳しい受験生活を送ってきた同級生と同じ授業、特に語学の授業はついて行くのに大変だったことを覚えています。
1 時限から5時限まで、そして17時からのバレーを月曜日から金曜日までとびっしりとしたスケジュールで過ごし、土日はリーグ戦で東京に行く生活。練習が終 わるのが午後9時か10時、当時共用棟のお風呂が9時までで、体育館の水しか出ないシャワーを浴びたりしていました。そして、語学の授業のある前日は、予 習をしないとついていけないけれど、でも疲れきって集中できずイライラして、ノートを学生宿舎の壁に投げつけたことも何度かありました。また、英語の授業 で外国人の教師の話すことにみんなが笑っているのに、笑えなかったことがものすごく悔しくて、そのあと必死になったこともいい思い出です。
今では 時効としてとらえていただければありがたいのですが、海外遠征で日本を離れている時、仲間たちが、あたかも私が授業を受けているように、つまり簡単にいえ ば代返です・・・をしてくれて、更にそのあとも私が答えなくてはいけない状況には、仲間たちがまたもや代わって答えてくれて、ということで海外にいるはず の私が授業をとり、答えていたということになっていました。仲間がいなかったら、無事に4年間で卒業できたか?厳しかったんじゃないかと思います(笑)。 今では北は仙台、南は福岡と皆バラバラに過ごしていますが、年に一度必ずどこかで集まって、当時のバカ話をして旧交を温めています。

 


◆バレーボールの現役選手を終えられた後、1990年に非常勤講師として再び筑波大学に戻ってきました。

 

久しぶりに筑波に戻った時の第一印象は、道路の樹が太く大きくなっている、ということでした。私が学生だったころは、添え木の方が太かったです。ま た、学生も我々の頃はおしゃれといえばGパンをはくくらいで、むしろダサいイメージのある学生が多かったですが、常磐道や高速バスが通るようになってか ら、東京に近くなったせいか、おしゃれな学生が多くなっていたことも驚きました。
授業は第三学群の学生を担当していたので、体育専門学群ではない 学生に体育としてバレーを教えることは、とても自分のキャパシティを広げることにつながり、有意義でした。私にとって意識すらしないでできるテクニックを 難しいと感じている学生にいかに分かりやすく教えることができるか、また元全日本選手として全国各地で行うバレーボール教室という単発の指導ではなく4月 から2月までの約8ヶ月間をかけて仕上げていく授業としてのプログラムをどう作っていくのか、そして何より学生が「バレーって面白い」と最後思ってくれる ようにどうクラスを運営していくのかを考え続けた時間でした。

 


◆更に1992年には大学院修士課程体育研究科に入学されました。

 

大学院に行こうと思った理由の一つは、自分がやってきたことを言葉や文字にしてみたいということからでした。コーチ学にはいろいろな研究があります が、それは最終的にはスキルアップや、より良いパフォーマンスにつなげるものだと思いますが、実際に私はオリンピックを経験してきて、自分のやってきたこ とを改めて検証し、それを活かして経験的指導ではなく、キチンとした客観的なデーターなどを使った指導法を作り上げたいと思ったからです。
また私 は現役引退後は講演会の講師もやっていたのですが、ある時期から依頼される講演会のテーマに、健康とスポーツについてというものが多くなりました。私は、 それまで健康のためにスポーツをしたことがありませんでした(笑)。むしろ、スポーツをすることで障害を抱えることが多かったですが、そんな私に健康を テーマに話をすることを依頼されても、話ができませんでした。ただ時代はバブルがはじけてから、大事なものは物やお金から健康や人生観などに変わってきて いたことと、私も加齢とともに生きていくためには、スポーツを全く違った方向からアプローチする必要もあると考え、大学院に進むことを決めました。

 


◆その後も筑波スポーツ科学研究所副所長や筑波大学経営協議会委員など、筑波大学またはその周辺機関とはコンスタントに関 係を継続させていただいております。そういう意味では三屋さんは37年程筑波大学を見ているわけですが、この37年で大学や学生で変わったなと思うことは ありますか。

 

基本的には変わってないかな、と思います。選ぼうと思ったら、いろいろな大学、学部を選べる時代に、敢えて筑波大学を選ぶ学生の気質というものは、真面目で目的意識のしっかりしたものだと思います。

 


◆変化という意味では、2010(平成22)年4月に「筑波大学基金“TSUKUBA FUTURESHIP”」を設立しました。これは将来の社会を背負って立つ能力や意欲のある学生への経済支援や国際交流支援、学術研究支援、社会貢献活動支援などを目指すものです。

 

企業においては、グローバリズムということに重点を置いています。ただこれは机の前に座らせて学ばせることよりも、実際にその場を経験したりして必 要性を感じないと、本当の意味で身に付くものではないと思います。だから企業でも、どんどん海外に人を出して、出て行った先で見つけたことやもので起業す るようなシステムをとる所もあります。
先ず経験してみること、行動してみるということは、とても大切なことだと思います。しかしそのための資源をどう確保するかということは、かなりハードルの高いことです。
だからこそ、それを支援できるシステムというものはとても有意義なものだと思います。

 


◆筑波大学は他大学に類を見ないスポーツ資源を有しており、この資源をより発展させるため、従来個々の運動部が行ってきた選手やチーム育成・強化などの支援も行っていくつもりです。

 

私は大学1年生の時、初めて大学選抜チームの一員として、キューバのナショナルチームと試合をする機会をいただきました。それまでテレビでしか見る ことができなかった、それも全日本チームですら負けるキューバと試合をさせてもらい、どこまで自分ができるかを経験させてもらいました。結果は惨敗でした が、それでも自分のスパイクが通用することでずいぶん自信につながり、これが世界で戦うための心構えを作った最初でした。
選手を強化することの一 つが、全力を尽くしても負ける相手と戦う機会を与えることだと思います。特に、海外の強い選手たちと戦う機会があればある程、選手たちは伸びていくことが できると思います。そのために学内である程度戦う基本を作り、そして武者修行のような機会をドンドン与え、修正と修行の繰り返しのようなシステムができた ら、いいと期待しています。負けることで強くなる、そんなイメージかもしれませんが、資源を増やすための機会と支援をぜひお願いします。

 

◆現在高校生、中学生、あるいは小学生の子供たちが、7年後の東京オリンピックの女子バレーボールの選手として活躍している姿を私は“IMAGINE THE FUTURE”します。

 

筑波大学やつくばで学んだ人たちがオリンピックを支えている姿や、その後スポーツが成熟期を迎えた日本を明るくしている姿を私は“IMAGINE THE FUTURE”します。
 

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