高校の部活の先輩からもらった赤本(赤い表紙の過去入試問題付ガイドブック)にあった、緑の中に建っている近代的な校舎群の写真が、とても新鮮で居心地良 さそうに見えて、「ここだな」と思いました。“大学は国公立の地方大学“が親父の方針でした。大学生になったら一人暮らしで苦労しろということでした。 当時の筑波大学は東京からの通学は到底無理でした。 入試2次試験の科目が、英語と社会の他が、苦手だった国語の代わりに数学ⅡBだった事も現実問題とし て決め手になりましたね。
余談ですが、兄貴も高知大学に行き、一人暮らしをしてました。わが家の伝統として、私の二人の息子にも大学からは一人暮らしをさせたいですね。振り返ってみるとこの時期の一人暮らしは精神的に大いにプラスだったと思います。
親父の期待に反して(期待通り)、好き勝手し放題で楽しかったですね。大学の公式HP上で大変恐縮ですが、学業は卒業するために必要最低限レベル・ギリギ リセーフってとこでしょうか。アルバイトではかなり稼ぎましたね、就職してしばらくは生活が質素になったくらいです。サークル活動ではいろいろな思い出が あります。筑波大学管弦楽団に所属、ティンパニ(打楽器)が上手くなりたい一心で練習の虫でした。3年次の10月にベートーヴェンの「第九」(交響曲第9 番)を演奏しました。いまではそう珍しくない選曲ですが、当時は合唱付の大曲で演奏技術的にも運営面でも障害が大きく、これを団員全員が一致団結して乗り 越え、公演を成功させたことはいまでも大切な思い出ですね。また余談ですが、卒業して20年以上経ちますが、現在も都内のアマチュアオーケストラで演奏を 続けています。2〜3ヶ月に一回のペースで演奏会がありますから、毎週土日のどちらかが練習で、家庭・仕事と趣味の両立には苦労しています。ですがこれ ばっかりは一生辞められそうもありません。
最初に定期預金係に配属されました。毎日毎日定期預金の残高が膨らんでゆく様子は、今思うとあれがバブルだったのですね。6ヶ月経ったところで外国為替課 に異動しました。長い英文を読んでいると激しい睡魔にしばしば襲われ、課長によく起こしてもらいました。入社4年目に融資課へ異動し、今日にいたるまで、 本店にいた約3年間を除いて、融資業務一筋というのが私のキャリアです。バブルが弾けて20年以上経つというのにいまだ景気低迷が続くなか、少し気恥ずか しいのですが、”真の意味でお客さまの信頼と期待に応える”ことが自分の存在理由と考えています。”毎日が「今日はお客さまのお役に立てたのか?」を自問 自答する反省の日々です。
難しい質問ですね。好き勝手し放題の生活でしたから、成り行きでいろんな経験をしましたね。学業のみならずアルバイト、サークル活動etc、大学四年間で得た知識と経験は暗黙知として、いまの仕事に多分役に立っていると思います。
“ものづくり”が日本再生のキーワードだとすると、筑波研究学園都市が日本再生の鍵を握っているといえるのではないでしょうか? 研究学園都市の中核と言える筑波大学で学んでいる学生諸君は、筑波から世界を変えようといった心意気で、高い目線で学問をしてほしいと思います。筑波ほど 世界レベルの研究機関が数多くある所は、日本中探しても少ないです。大学の先生方だけでなく研究者たちとも積極的に交流して、生きた学問をして欲しいです ね。
筑波大学には、研究学園都市の機能をフル活用するための連結ピンとしての役割を期待したいです。学生と研究者の交流を通じて研究機関相互の交流を活 性化させ、事業化、起業支援などなど、筑波大学が日本再生の仕掛人となって欲しいと思います。私も微力ではありますが、精一杯のお手伝いがしたいです。筑 波大学基金には、日本再生のための挑戦的で実験的な試みを強力に後押しする目的にも活用して欲しいと思います。
リハーサル風景
筑波大学管弦楽団 20回定期演奏会