プロフィールを拝見しますと少女時代から文学に親しんでいらっしゃったようですが、そんな松村さんが筑波大学比較文化学類を志望された理由は何でしょうか。
当時はまだ新しい大学で、理念も組織もキャンパスもすべてが既成の枠にはまらない風変わりな場所に見えました。その、なにかわからなさのようなものに惹かれたと思います。〈比較文化〉というのも、なんだかよくわからないけれども面白そうだと、そんな感覚でした。
実際に入学されて筑波大学の印象はどうでしたでしょうか。
無機的なものと有機的なもの、孤独と連帯……といったように、何につけ両極の共存する面白い場所でした。おそらくそれが、とても居心地よく感じた理由だと思います。
〈比較文化〉という学問はいかがでしたか。
当たり前ですが、対象となる文化をそれぞれに研究した後でなければ〈比較〉などできようはずもないので、学部の間には到底不可能なことと思い知りました。 なので、とりあえず、〈文化〉の中の〈文学〉の中の〈フランス文学〉の中の〈現代詩〉の中の〈イブ・ボンヌフォア〉という非常に狭いエリアを探索地に選ん だのでした。
ご提供頂きました3枚の写真の解説を交えながら松村さんの大学時代についてお聞かせください。
最初の写真は1980年の比較文化学類祭のものです。確かこの時は学園祭が中止(※1)になったので学生が自主企画として催したように記憶しています。
比較文化学類には魅力的な先輩たちがたくさんいらして刺激的でした。
2枚目の写真は平砂宿舎のテニスコートで撮ったものです。芸専棟で活動する「焼き物をつくる会」に所属していたのですが、スキーやツーリングなどレジャー企画が多く、自分たちでは「焼き物もつくる会」と呼んでいました。わたしは、もっぱらテニスと麻雀専門の会員だった気がします。
そして最後の写真は二学・三学と図書館の間の「石の広場」で、卒業アルバム用に撮影されたものです。一緒に写っているのはフランス文学専攻の先生方と同期生ですが、フランス文学専攻の学生は各年1〜3名しかおらず、弱小派閥でした。
「至高聖所(アバトーン)」(※2)は筑波大学をモデルに描かれていますが、本小説を書くに至った動機と、執筆中のエピソードなどを教えて頂けますか。
大学生の話を書こうと思ったときに、知らない大学を無理にモデルにするよりは、母校をイメージしたほうが楽だったのです。たまたま世間的には珍しい場所だったようで、メリットになりました。
エピソードといって特に覚えていませんが、たしか雑誌掲載時に最後のシーンがどうしてもまとまらず、校了の日の最終電車で印刷会社まで持っていったのを覚えています。
その「至高聖所(アバトーン)」で1992年1月第百六回芥川賞を受賞されましたが、受賞前と受賞後とで松村さんの生活や心境等で何か大きな変化は生じましたでしょうか。
作家生活が始まったという意味では、芥川賞よりもその前の「海燕」新人賞のほうが影響大でした。芥川賞はあれこれ考える前にいただいてしまったので、心構えができていなかったという感じです。かえってその後、臆してしまいました。
松村さんが過ごした筑波大学での4年ちょっとの時間は、「至高聖所(アバトーン)」以降の松村さんの執筆活動や思考などにどのような影響を与えましたでしょうか。
筑波の宿舎生活というのは、独特な環境ですね。日常の全てがキャンパス内にあるという状況で、全国各地からやってきたひとびとと、学年や学類を超えて交流ができ、人間の多様さと普遍性といったものを学んだ気がします。
一方で、都心から距離があり自然と研究施設の共存する景観の中で、あらゆるものから離れて、ひとりでいようと思えばそれもまた許されます。
そうした中で、他者との距離感や、世界の中での自分の立ち位置のようなものを掴んでいったのだと思います。社会に出て環境が変わり、また社会そのものも大きく変化しましたが、けっこう頑固にゆらがず立っていられるのは、あの頃ぜいたくに時を過ごせたおかげかもしれません。
最後に今の筑波大学の学生へのメッセージと、「筑波大学基金 TSUKUBA FUTURESHIP」へ期待することをお願いいたします。
わたしがいた頃とはキャンパスの条件もさまざま変わっているでしょうが、なんといっても筑波大の特色はロケーションと広大さにあると思います。その独特の距離感と空間感覚を味方につけて、世界と対峙してゆかれんことをと願います。
そうして歩き出す学生たちをさまざまな形で支援していこうとする「筑波大学基金」のご発展をお祈りいたします。
(※1)筑波大学の学園祭(雙峰祭)は1980年と1984年の2回中止となりました。
(※2)「芥川賞全集 第16巻」文藝春秋 に収録されております。
※松村栄子HP http://www.asahi-net.or.jp/~NW6E-MTMR/