柴田先生というとまずはラグビーを思い浮かべますが、先生がラグビーをやり始めたきっかけは何だったのでしょうか。
中学時代は野球少年でした。何といっても当時の人気スポーツは野球でした。熱血野球マンガ「巨人の星」が私たちの憧れの世界だったのです。プロ野球選手 になるのが夢などとは思ってはいませんでしたが、野球に熱中する自分の姿に、我こそは日本の求める最も好ましい少年であると、最もかっこいい存在であると 思い込んでいました。
中学2年9月、野球の練習中に利き腕の右ひじを骨折しました。この日、ピッチャーだった私の野球設計が壊れました。回復してバッターとして、たまにリリーフピッチャーとしてプレーしましたが、野球場では余り満足できない自分がいたように思います。
高校に入学して野球部の練習を見に行ったのですが、体育館の建設のため野球部は校内では練習ができず外部に行っていたので、見ることができませんでした。 そのとき、くもの巣に引っかかるようにラグビー部の勧誘に遭い、小学生の頃に見ていた青春学園ドラマ「青春とはなんだ」などの映像が頭に浮かび、ふらふら と入部してしまいました。
これが、ラグビーにはまるきっかけでした。
そして東京教育大学体育学部(現筑波大学体育専門学群)に入学されましたが、その志望理由もラグビーが関係しているのでしょうか。
高校時代は、国立理系のクラスにいました。小学生の頃は、医者になりたいと言っていたこともあり、特に定まっていなかったこともあり、テストでいい点が 取れるわけではありませんでしたが理系の授業が好きだったので、理系を選んでいました。それでも、高校3年になる頃には、結構はっきりと体育にいってラグ ビーをやりたいという意志はありました。
大学時代はどのように過ごされましたか。やはりラグビー一筋だったのでしょうか。
ラグビー以外のことにあまり時間をかけることのない生活を、ラグビー一筋と表現すれば、その通りだったと思います。大学2年のシーズンが終わった冬のト レーニングで腰を痛め、その怪我を甘く見て治療に真剣に取り組まなかったために、その後の2年間プレーできない結果となったことは、本当に悔いの残ること でした。しかし、このあと、私はコーチングを勉強して自分なりの指導方法を構築してきたと思っているのですが、その基盤はこの2年間にあったと思っています。
大学院在籍中の1979年には新設の茗渓学園にて教諭の道に進まれましたが、その理由をお聞かせください。
茗溪学園開校の前年、1978年の5月に、茗溪学園初代校長の岡本稔先生の面接試験を受けました。場所は、研修センターでした。その面接のとき、こう言われました。
「あなたを採用します。校技をラグビーにします。」
これは、最高の名誉だったわけです。もう茗溪に骨を埋めるしかないと思いました。
他にもいろいろと注文をいただきました。
「茗溪では、野外活動をたくさんやります。キャンプの勉強をしてきてください。オリエンテーリングの勉強をしてきてください。最初のあなたの仕事は食堂での仕事ですのでしっかりやってください。」
これらのことをこなしていくのも、とても楽しかったですね。以来、今年で33年となりました。
大学院在学中に就職したのは、修論を完成させることができなかったという失態を演じたためです。しかし、おかげさまで茗溪学園の生徒たちを被験者にしたパ ス指導の実践的な実験を修論にすることができました。実際の自分の授業の効果を測定する実験だったので、実のある研究となりました。
茗渓学園ではラグビー部を創設して、1989年1月には全国制覇(天皇崩御により2校優勝)を成し遂げました。柴田先生にとってラグビーとは何なのでしょうか。
私自身を構築して「柴田淳」という姿を見えるようにしているものだと言えます。ラグビーは、私の専門分野ですので、これを結構一生懸命に学びました。毎 日の指導の実践が少しずつ蓄積されて私の財産となりました。また、ラグビー以外で学ぶこともラグビーの例に置き換えるとなぜか早く理解できるので、それら のことを数多く知識として積み上げることができました。
全国制覇は、毎年目標に掲げてきたことですが、たとえ達成できなかったとしても、私や 一緒にプレーしている仲間に対し、ラグビーは多くの収穫物をもたらしてくれます。まさに我が人生を豊かにしてきてくれたもの、そしてこれからももっと豊か にしてくれるものだと思います。
「筑波大学基金(TSUKUBA FUTURESHIP)」は経済格差が教育格差に繋がらず、無限の可能性を秘めた学生が安心して学習・研究に専念できるようにという願いを込めて設立しました。最後に本基金へ期待することと、今の筑波大学の学生へのメッセージをお願いいたします。
私は、東京教育大学(体育学部)の最後の卒業生です。実は入学する前、1年後には自分も筑波に移ってくる、茨城出身の私にとっては家が近くなる、などと 勘違いしていました。それぞれ別々の大学であると理解してからも、私には全く違和感なく筑波大学へと続く流れを感じてきました。私自身、筑波での大学院時 代に本当に多くのことを学ぶことができました(学部時代は勉強時間が少な過ぎたという反省を含む)。今、筑波大学に学ぶ学生の方々にも充実した学生生活を 送って欲しいと心から願っています。
この3月の東日本大震災によって引き起こされた、大切な学びの生活を困難にするさまざまな状況を見聞きするに つけ、このような基金の大切さを感じます。若い学生の皆さんには、このような困難を乗り越える技術を創出し、力強く未来を支えていくリーダーとなっていけ るよう学びを深めていって欲しいと思います。この筑波の地でよりよい生活を送り、明るい未来を築く「人」になっていってくれることを期待します。