本当に感動的でした。授業やゼミで4年間の付き合い、それから20年の年月が流れ、皆さんそれぞれ若き日の面影を残しつつ、しかも立派な、精悍な、堂々 たる社会人になっており、感動的でした。初めは若干遠慮があって「○○さん」等と呼んでいたのが、話しているうちに、すっかり20年前に戻ってしまい 「○○くん」になってしまった。女子学生の皆さんも、しっとりと落ち着いた素敵な女性に変身していて、大感動でした。ゆっくり話せない人も多く、大変心残 りでしたが、本当に楽しいひと時でした。関祐秀くん(この同窓会の仕掛け人です)が苦心して作ってくれた名簿を見ていくと、その同窓会では会えなかったけ れど、「ム!○○君か、元気の良い子だったな、今はどうしているのかな」などと断片的に記憶が蘇ってくるのも楽しいことでした。来春任期が終わって自由に なったら、nonviolent actionとか国家論とか政治思想史とかをテーマに、また「三石ゼミ」でも開きましょうか。
私はもともとナチス・ドイツの時代の政治思想をやりたかったのですが、その前に西洋とは考え方も歴史も異なるアジア、特に中国の政治思想史を押さえてお きたかった。その結果『中国の千年王国』、『伝統中国の内発的発展』、『中国 一九〇〇年』等を纏めたけれど、中国研究に意外に時間をとられてしまい、よ うやくナチス・ドイツ研究に戻ったのは、「アルカディアー幻想と政治権力−ケストナー、トーマス・マン」(『筑波法政』21号、1996年9月)以降で す。ナチス・ドイツ研究も「精神的抵抗=国内亡命論」という限られた視点ですが、ポルシェ論で一応完結です。
現在の世界政治の動向を考えると、 洋の東西だけではなく、ムスリム文化圏もきちんと視野に入れておくべきであったと反省しています。現在では、その反省の上に立って、エジプトで成功裏に展 開された、ジーン・シャープGene Sharp(1928〜。米の政治学者)の「武器なき闘争nonviolent action」論(このテーマについては筑波大でも筑波学院大でも教えてきましたが)に再び取り組もうと考えています。
私が筑波大学に赴任したのは1976(昭和51)年4月、土浦駅発(荒川沖駅発バス未運行)のバスに乗り旧道を辿って筑波地区に入ると、バスは、ダンプ カーやトラックの轍で「超でこぼことなった道」を大きく左右に揺らせながら大学にたどり着きます。大学といっても、この頃はまだ、体芸棟と体芸図書館だけ が荒涼たる平地にぽつねんと屹立していました。人文社会科学系棟はまだ建設中であり、至る所が未整地の工事現場で、雨ともなれば泥濘の海と化し、長靴は必 需品でした。まるで西部開拓の時代を思わせるものでした。私たち社会科学系の教員は、確か体芸棟図書館の二階の何の仕切りもない広い部屋に、他学科の先生 方と一緒に机を並べました。研究室ではなくて職員室!という雰囲気でした。また筑波への赴任に伴って僻地手当が出ました。
私が筑波大学を辞め (定年の3年前、60歳の時。この年定年で退官された社会学の副田先生・佐藤先生、法律の土本先生と一緒でした)、大学病院の近くの東京家政学院筑波女子 大学国際学部に移ったのが1998年4月です。筑波大での22年間は、私立大学に勤務してみて初めて分かった事ですが、教育面はもちろん研究面でも大変恵 まれていたということです。教育面で言えば、私は社会学類政治学専攻(社会科学系)で「政治思想(東洋と西洋)」を教えていましたが、学生諸君は日本全国 から筑波大を目指してやってきた優秀な学生ばかりでしたから、外書購読で難解なテキストを選んでも皆きちんとやってきてくれるし、講義などでも全く苦労な しでした。就職先もそれぞれ自分で見つけてきて、それぞれきちんとした所に就職し、私の手を煩わせることなど全く無かったですね。
学生諸君の変 化について言えば、社学の学生諸君は、東大・京大には行かないという自負心と、それぞれの出身高校で培われた並々ならぬ自信と・誇りを持って青春を謳歌し ているという点では、22年間、まったく変わっていないと思われます。学生諸君一人一人、きわめて個性的であって一概には言えませんが、大きな変化を敢え て挙げれば、それは日本の大学生の変化と軌を一にしており、初期の学生諸君はマージャンをやり、教師たちと一緒に酒を飲みまくりという学生気質が極めて濃 厚であったけれど、後期になってくるとそれが漸次消滅していき、言わば「内向的になって行く」という傾向でしょうか。やはり目を世界に注ぐことが大切と思います。
ナチス政権下における「精神的抵抗」の有様に興味を持って、作家ケストナー、ノーベル文学賞受賞のトーマス・マン、ロマニスト(ギリシャ・ローマの古典 文学研究者、特にローマの文学研究者を言う)のブルーノ・スネルとフリートリヒ・クリンクナー、法哲学者のラートブルフ、作家のシュテファン・アンドレ ス、以上については『筑波法政』に書きました。東京家政学院筑波女子大学に移ってから、作家のハンス・カロッサ、指揮者フルトヴェングラー、ポルシェなど について書きました。ポルシェの「空冷水平対抗エンジン」は、第一次世界大戦時代にポルシェが航空機のエンジンとして開発し、のちVWに搭載されますが (第二次大戦後の<356>や<911>も同じVWのエンジンです)、エンジンの最高傑作と思います(日本ではスバル・富士重工)。2007年には『ポル シェの生涯−その時代とクルマ』を纏めました。ポルシェはヒトラーに完全に全面的に信用されてしまいVWの製作と今日のVW社の本拠地・ヴォルフスブルク (当時は荒れ果てた湿地)の大量生産自動車工場の建設とを一任されますが、ヒトラーの政治的立場や思想とは完全に一線を画し、常に平服をまとい「精神的抵 抗」を貫いています。
「今の筑波大学や筑波学院大学の学生たちにメッセージをお願いします」との注文に応えて一言、「消極的にならないで、一歩前へ踏み出し、未知の世界に勇 気を持って飛び込んで行くことが大切だと思います。また志を大きく持って、東日本大震災の復興の一翼を担うのだと言う気概を是非持ってください」。
私学に移って高校訪問を続けてきて、家庭の経済的状況によって四大への進学を断念して専門学校への道を選ぶ生徒が意外に多い、ということを知りました。そういった生徒諸君が四大に進学へ出来る道が開かれていたら良いですね。