以下、〇福見友子選手、◆筑波大学
◆先日4月15日に現役引退を表明されました。トップアスリートである以上、いつかは決断しなければならないものですが、このタイミングで決断に至った理由を教えて下さい。
〇念願であったオリンピックの出場が決まり、ここに至るまでの苦労が吹き飛びました。オリンピックでの結果は悔しいですが、私は、充実感で満たされました。
◆昨年のロンドンオリンピック後、主な大会にエントリーされてなかったので気になっていました。
〇オリンピックが終わり目標を達成できなかったという想いを受け入れるのに時間が必要でした。
◆その目標だったロンドンオリンピックに出場されていかがでしたか。
〇初戦の畳に上がった瞬間、身体中に実感が込み上げてきて、とても幸せでした。
◆「オリンピックには魔物が棲んでいる」とはよく言われます。このことはまさに福見選手のような経験者にしかわからないことだと思いますが、世界選手権など他の大きな大会と比較しても、オリンピックは全く異なるものなのでしょうか。
〇オリンピックは4年に一度の一発勝負です。試合当日にあらゆる面で整った選手が頂点に立つと思います。そしてその研ぎすまされた選手たちの戦いぶりに世界中の人たちが心を動かされるのではないでしょうか。
◆48kg級は激戦区です。ロンドンオリンピック代表を巡っては浅見八瑠奈選手、山岸絵美選手がいました。またその前の北京オリンピック代表を巡っては谷亮子選手がいました。福見選手にとってこうしたライバルとはどういう存在なのでしょうか。
〇私の一番のライバルは常に自分自身です。しかしオリンピックを目指し競技生活を送る中で、谷選手、浅見選手、山岸選手との対戦は、私を大きく成長させてくれました。
◆柔道は怪我とも隣り合わせです。2011年12月のグランドスラム・東京は左足首の捻挫をおしての出場とお聞きしました。その他にも大なり小なり怪我をおしての出場があったのではないでしょうか。
〇私は他の選手と比べると怪我は少なかったと思います。ただ、大怪我といえば、フランス国際大会の試合中に腓骨骨折をしたことがあります。長期のリハビリ生活を経験し、怪我を抱える選手の気持ちや、怪我への対処法、身体を調整する方法を学びました。
◆こういう時は勿論怪我自体のケアも大切でしょうが、精神的なケアも難しいのではないでしょうか。
〇怪我の時は早く復帰したいと焦ってしまう自分自身との戦いでした。しかしこの怪我にも意味があり、今しかできないことをやろうと気持ちを切り替えることができるようになりました。
◆怪我、判定、選考……。永年柔道をやっている以上、当然いろいろなことがあったかと思います。その中で敬服するのは、10年以上トップ選手としてあり続けた凄さです。
〇競技生活は本当に山あり谷ありでした。ただ、だからこそ今があると感じています。私は「目標を忘れない」、「最後まで自分を信じる」と想い続けてきました。その想いとたくさんの方々のサポートが私をここまで導いてくれたのだと思います。
◆技術や体力だけでは続かないですよね。折れない心がないと。やはり心技体、あるいは心技体知ということでしょうか。
〇心技体が整うことがベストだと思います。ただ、心が折れてもいいのでは?と思います。私は何度も心が折れました(笑)。ただ、そんな自分を受け入れ、認めて、次へ向かいます。そしてもっと強い自分になりたいと頑張ります。
◆そしてその大前提に感謝があるのでしょうか。福見選手が先日の引退会見も含め、いろいろなところで感謝の言葉を仰っているのが印象的です。
〇柔道は相手あってのものです。また、一人ではここまでくることができなかったと思います。私は感謝する気持ちを柔道から学びました。
◆ところで福見選手は筑波大学の隣接市、地元土浦のご出身ですね。
〇はい、そうです。
◆そもそも柔道を始めるきっかけは何だったのでしょうか。
〇1992年開催のバルセロナオリンピックの柔道競技をテレビで観戦し、日本選手が金メダルを獲得したことに感動しました。その後すぐに地元の道場を訪ねました。
◆古賀稔彦選手、吉田秀彦選手が金メダルをとったときですね。そしてこの大会から女子が正式種目となりました。
〇そうですね。家族みんなで応援していました。母は女子の柔道が正式に始まったことを知り、娘にどうかしら?と興味を持ったそうです。
◆この時福見選手はまだ7歳、小学校1年生ですよね。
〇はい。この数ヶ月後に道場の門を叩きました。練習の始めに行うマット運動がもともと得意だったので、すぐに惹かれました。ただ柔道の基本 である受身の練習が始まると、涙を流しながら練習していました。技を覚え試合にも出られるようになると、自分よりも大きな男の子を投げられるようになり、 柔道の魅力に引き込まれていきました。
◆土浦日本大学高等学校時代はいきなり1年生の全日本ジュニア体重別選手権で優勝されました。そして2年生の全日本選抜体重別選手権大会で は田村亮子選手を破って一躍時の人になりました。まだ心が成長しきっていないこの時期に世間の期待と注目が集まったのは、正直精神的にきつかったのではな いでしょうか。
〇当時は、毎日悩みもがいていました。まるで形の見えない何かと戦っているようでした。とても苦しい時期でした。
◆その後筑波大学に進学しましたが、なぜ筑波大学を選ばれたのですか。
〇高校生の時から筑波大学生と練習させていただく機会が多く、世界で活躍する選手の練習を間近で感じることができました。その姿にとても憧れていました。
◆筑波大学柔道部の練習はいかがでしたか。
〇筑波大学柔道部は、とても強い先輩ばかりおられたので入部当初は練習が厳しくてよく泣いていました。ただそのような高い目的意識を持つチームの中で練習を続けるうちに成長を感じられるようになりました。
◆ご自宅が土浦なので学生寮には入らなかったのですね。
〇一年目は、平砂学生宿泊に入りました。親元を離れ自立するためです。
◆大学生活はいかがでしたか。例えば授業は真面目に出たタイプですか。
〇遠征がない時はできるだけ出席しました。ただ、真面目に聞いていたかは‥•笑
◆さすがに柔道があるので、他のサークル活動や、アルバイトなどはやらなかったのでしょうね。
〇やりませんでした。アルバイトやサークル活動は一度でいいからやってみたかったです。華の大学生生活を体験したいという憧れがありました。
◆今後のことについてお聞かせ下さい。引退会見では、今後は了徳寺学園および筑波大学での指導、更にロシア女子代表の臨時コーチをされるとのコメントでした。
〇その通りです。了徳寺学園、筑波大学には優秀な指導者、選手がたくさんおり、私自身勉強の毎日です。競技を終えて間もない私ですが、この ような環境で指導をさせていただくことに感謝しています。ロシアチームは、ロンドンオリンピックで素晴らしい成果を上げていますので、その指導法を学んで きたいと思っています。また私の経験から得た技術等が伝えられるように頑張ります。
◆それでは引き続き筑波大学柔道部のご指導をお願いします。
〇はい、選手と共に成長していけるように頑張ります。
◆これまでも柔道部でのご指導をいただいておりますが、人に教えることはどうですか。
〇「伝える」ということに難しさを感じます。ただ、とてもやりがいを感じます。
◆筑波大学では将来の社会を背負ってたつ優秀な人材を各界に送り出すための学生支援の一助として、筑波大学基金“TSUKUBA FUTURESHIP”を平成22年4月より運営しております。
〇とても素晴らしい基金制度ですね。多くの学生の励みになると思います。
◆紫峰会(学生後援会)と協力して、課外活動団体へ対しての支援も行っています。
〇ありがとうございます。このような大学の支援は課外活動団体において大きな力になると思います。
◆最後に福見選手から、将来を担う学生に対してメッセージをお願いします。
〇学生生活は、色々なことに挑戦できる機会がたくさんあります。その機会を自ら探し求めてチャレンジしてほしいと思います。どんなことにも失敗はつきものですが、失敗こそが更なる成長への力となります。大学の支援、サポートに感謝して伸び伸びと大学生活を送って下さい。