◆筑波大学時代の思い出
私が中学・高校生の頃は学園紛争に揺れた時代で、通っていた東京学芸大学附属小金井中学校は、大学のキャンパス内に設置されていたという事もあり、 毎日ロックアウトされた正門の脇をすり抜けて通学したことを覚えています。そんな時代の流れの中で、いわゆる新構想大学としてスタートした筑波大学は、当 時マスコミにも色々と騒がれたと記憶していますが、私には何やら新鮮に感じられ、何かが変わるという定かではないものの一種憧れみたいなものを抱いて受 験、入学しました。入学試験とその結果発表は、まだ茗荷谷の東京教育大学キャンパスでした。私にはもう一つ親元から離れ、自分で下宿生活をしたいとの思い もありましたので、筑波という東京からちょっと離れた場所も魅力的に感じていました。
入学が決まり最初に筑波の地に来た時は、正直大変なところに来てしまったなというのが第一印象でした。筑波山のふもとに広がる常陸の原野の中に、ぽ つんと立っているのは体育・芸術専門学群棟と第一学群棟のいくつか、そして平砂・追越学生宿舎くらいで、あとは建設途中の建屋、工事中の道路のみ。当時は JR土浦駅から大学までのバス便が、唯一の公共交通手段でしたが、その30分がとても長く感じられたものです。一週間の授業が終わる土曜日の昼ともなる と、大学から東京に向かう学生でバスは大変な混雑になっていました。ドイツから来られていた地理学の教授も、ここは“THE END OF THE WORLD”だな、と冗談交じりに言われていたのを覚えています。立木もまだ植えたばかりで、見晴らしを遮るほどでもなく、筑波の霊峰がふもとまできれい に見えていました。入学式を前に入った平砂学生宿舎では、4月の筑波おろしがまだ身に堪え、暖房が入らない宿舎で毛布に包まり、なんとなく寂しく入学の日 を迎えたのが昨日のように感じられます。
それでも学園生活がスタートすると、期待に違わず新鮮で新たな発見の日々の連続でした。当時の先生方も試行錯誤をしながら、実際の学校運営にあたら れていたのではと思います。入学時に我々の学群を担当されていた副学長の高橋進教授から、アメリカのカリフォルニア州立大学バークレー校に視察に行き様々 な大学運営の仕組みを学んだという話などを聞かせてもらいながら、自ら主体的に考え、自分で学生生活を作っていく大切さを学び、可能性に期待を膨らませた 学園生活でした。語学、体育、そして苦手だった情報処理などいくつかの必修科目もありましたが、学群、学類をまたがって履修できる、自由度の広いカリキュ ラムシステムで学べたことは、当時盛んに言われた学際的という言葉とともに、自分の成長に大きく役に立ったのではと今も思っています。広い視点で物事を見 る大切さという事かも知れません。
学生にとっての最大イベントは学園祭。まだ学生数も少なく、今の学園祭とはその様子を大きく異にしていますが、私が所属した比較文化学類では「神は 死んだか」というテーマを掲げ、文学、地域研究、思想・哲学という観点から様々な考察の発表会を行うとともに、上智大学からルードヴィヒ・アルムブルス ター名誉教授をお招きして講演会を開いたりしたことが懐かしく思い出されます。学生宿舎を核として、まさに24時間皆が集まれるという恵まれた環境で、 喧々諤々の議論、80名の学類生が一体感をもって一つの目的に向かって力を合わせるという体験は、筑波大学で得られた何物にも代え難い経験だったと思いま すし、社会に出てからもそのやり切ったという経験が、仕事を進める上での自信につながっているように感じています。
◆就職
小学校から教育関係に近い学校に通いながらも、先生になるつもりは全くなく、文科系ではありましたが、大好きだった物づくりを拠り所に製造会社に就 職しました。最終的に就職が決まったのは、確か4年生の夏以降だったかと記憶しています。今から見れば遅い内定でした。当時は就活スーツとか就活ノウハウ 本などもあまりなかったかなと思います。比較文化という言葉は今でこそ通りが良くなってきていますが、当時はそれって何ですか、ところで何を勉強されたの ですか、と会社面接で尋ねられ、その説明に苦労したことを覚えています。
最初の仕事は数量計画を主とした事務系の仕事でしたが、5年目にもともと興味のあった海外営業部門に移ることとなり、それをきっかけに私にとって大 きな転機が訪れることになりました。拡大していた情報機器関連商品のヨーロッパにおける販売拡大をめざし、代理店販売から自社での直接販売に切り替える目 的をもって、西ドイツ(当時はまだ西と東に分かれていました)ハンブルグ市に駐在員オフィスを立ち上げるため赴任することになったのです。駐在員オフィス と言っても私とドイツ人秘書の所謂一人事務所。オフィスの什器備品を買い揃えるところからのスタートでした。その後現地法人への格上げ、併設する製造会社 と合わせ数百人規模の会社になったものの、立ち上げ時からの様々な経験が自分のキャリア形成に大きく役立つ事となりました。
例えば会社を経営しようと思うと、基本的な経理知識は必須となりますが、本社に居るとその多くは専門の経理部の仕事であり、営業部門に要求される経 理的なことは限定的になるのが普通かと思います。ところが海外現地法人のように小さくとも独立した会社を運営しようとすると、本社では経験できない様々な 分野の仕事を経験することができるようになります。資金繰りに苦労したり、メインバンクに経営状況全般の説明をしたり、融資枠の確保を依頼したりと、想像 も出来なかった仕事に遭遇することとなります。ドイツ人同士の人事トラブルに、何で日本人の自分が間に入って仲介しなくてはいけないの、なんて言うことも ありました。営業分野では民族性、文化、習慣など各国で異なり、時には仕事の進め方さえも違う多くの国の人々と仕事をする機会に恵まれました。仕事の幅が 想像以上に膨らみ、その経験が自分の成長に繋がったのではないかと感じています。海外勤務の経験は多様性に対する適応力を高め、様々な状況に応じた臨機応 変な対応力を身に着けるうえで、大変役に立ったと思っています。最近は海外で働きたいという若者が少なくなっていると聞くことがありますが、そのような機 会に巡り合える方は、是非とも積極的に海外に出て行って、多くの経験を積んで欲しいと思います。
振り返って会社での様々な場面における仕事で、いつも役に立ったのが筑波大学で学んだことでした。課題を先ずは正しく把握することに努め、その解決 への方法論を探り、試してみる。失敗することも多々ありました。でも諦めずにまたやり直す。そんな基本的な行動様式を身に着けることができたのが、筑波で の4年間であったと思っています。
◆TSUKUBA FUTURESHIPとこれからの若者への期待
ここ10年位は立場上、学生さんの面接に立ち会うことが多くなってきました。一言で言うと標準化されているなという感想です。みんな同じに見えるの です。想定された質問をすると、多くの場合想定された答えが返ってくる。そんな中で自分の考えをしっかりと持っており、それをきちんと言葉で説明できる方 に出会うと嬉しいですね。ドイツで生まれた娘はインターナショナルの小学校に通っていたのですが、そこでは“Show and Tell”という授業が頻繁に行われていました。玩具でもなんでもいいのですが、自分の気に入っているものを学校に持ってきて、クラスメイトにそれを見せ ながら、何故それが自分にとって大切なものなのかを説明するのです。自分の思いを他の人に伝えることが訓練されていたのです。そんな娘も日本に帰ってから は、徐々に周りの様子を見ながら自分の考えを率直に言わなくなってしまいました。他の人と違うことが嫌なのですね。これからの社会はさらにグローバル化が 進み、多様性が重んじられる社会になると思うのですが、その中で自分の考えをきちんと持ち、他の人とのコミュニケーションが正しく取れるという事がとても 大事になると思います。筑波の学生さんには、是非そうしたグローバルに通用する人材となるよう、4年間の大学生活の中で成長して欲しいと思います。
そう言う意味でもTSUKUBA FUTURESHIPの目的のひとつとして掲げられている「国際交流とグローバル人材の育成」はとても大切なこと だと思います。これからは今まで以上にグローバルな付き合いが必要になってくる日本です。多様性を持った多くの人々と付き合い、自分の考えをぶつけ、お互 いが理解しあえる、そんな人材がTSUKUBA FUTURESHIPを通じ、筑波から多く輩出されれば良いなと願っています。微力ながら応援できればと思っております。