我々は、1974年に第一期生として筑波大学へ入学しました。早いもので大学は開学40周年を迎え、私達一期生も卒業後39年が経過しました。
入学当初からこの大学はユニークでありました。入学式を筑波大学の体育館で終えると、東京オリンピックの選手村であった代々木のオリンピック青少年センターへ移り、数日間に亘りオリエンテーションが行われました。
ここで既に数名が一部屋で寝起きする共同生活が始まりました。オリエンテーション終了後、校舎や宿舎が完成するまで自宅待機となり、ゴールデンウイーク明けに晴れて開校という経験をしたのです。
筑波大学に一期生として入学した仲間の、筑波大学入学の動機は夫々違ってはいたと思いますが、私は、大学の学群制度に魅力を感じていました。当時多 くの大学は学部が縦割りで、まだ専攻が絞りきれていない私にとっては悩みだったのです。筑波大学のカリキュラムは横断的で、また定員が少ないことから、専 攻を超えて興味のある科目にも参加でき、幅広く友人ができたことは大きな財産となりました。
しかしながら、就職シーズンになると、新設大学ということでネームバリューがまだ無かったこと、また時期が第二次オイルショック後で、大手会社でも 採用ストップという厳しい逆風の中で、一期生としてはかなり苦労したことを思い出します。4年生では三瀦信邦先生のゼミに所属していましたが、宍戸俊太郎 先生、碓氷尊先生にお世話になりました。就職にあたって先生方からは「鶏口となるも牛後となるなかれ!」ということで、筑波大学の学生としての独立性を発 揮するようアドバイスを受けました。
この教訓を受けまして、大手の自動車メーカーや鉄鋼メーカーの内定は頂いたものの、ひょっこり立ち寄った今の会社の人事担当役員の人柄に触れ、この 会社に入社を決めました。入ってみると、まだ二部上場も果たしていないということが分かり、一瞬騙されたかと思いましたが、考えを変えればこれから二部上 場・一部上場と、人の経験できないことができるのだと思い直し、結構楽観的に楽しく仕事に邁進したものです。これも、何もない筑波の地で生活した開拓者精 神のようなものが、いつの間にか身についたということでしょうか。
その後、42歳の時に思いもかけず中国に赴任することになりました。言葉もわからずに赴任しましたので、1997年当時はまだ日本のメーカーも少な い時代、日本人に会うとホットしたものです。ある時、上海空港でカウンターに並んでいると、私をじっと見つめる男がおりまして、よく見ると、何と彼は筑波 大社会学類で2年後輩の高木宏治君で、10年ぶりの再会でありました。高木君は住友信託銀行の中国代表として上海赴任中で、それからは彼の人脈で次々に筑 波大出身者で中国に赴任している仲間を探し出し、定期的に上海でOB・OG会を開催するようになったのです。
驚いたのは、筑波大のように卒業生の少ない大学でありながら、中国で活躍している仲間がかなり多いことです。皆さん中国で組織の代表を務めている人 も多く、野村証券、資生堂、読売テレビをはじめメーカー・商社など枚挙にいとまがありません。そこに中国から筑波大へ留学した中国人卒業生が加わり、組織 はあっという間に大きくなっていきました。この時からの縁で、中国に関わらず様々な世界の情報が入るようになり、視野がずっと広がった思いがあり、このよ うな出会いに感謝しています。一昨年には北京に筑波大学の正式な同窓会組織もオープンしたということで、筑波大の中国パワーはますます拡大を続けることで しょう。
東京でも、仕事を問わず様々な分野で中国に関わっているOB・OGの仲間で定期的に集まり情報交換を続けていますが、これがきっかけとなり、やはり 筑波大学OBの土井教授が開かれた「21世紀の中国」という講座を、2009年から皆で分担して担当しています。学生と関わることで多少の恩返しができれ ばと思っております。
入学当初は東京からの交通アクセスも悪く、なんとなく疎外感を禁じ得ない環境ではありましたが、苦労や経験が今となっては強い共通体験となって昔の 仲間とつながっているのは筑波大ならではという気持ちです。これまで社会人として生活してきた中で、様々な場所で筑波大のOB・OGと出会い、それがさら に世界を広げてくれたことは、当時思いもしなかった大きな財産で有ります。
今後も、我々卒業生や大学が、情報を積極的に発信し、筑波大の卒業生だけでなく、幅広く様々の分野の方に筑波に関わりを持っていただくことが、大学 の社会性をさらに高めることに繋がると信じております。私個人としましては、大学イベントへの協力や、今年立ち上がりました「筑波みらいの会」の活動を通 じて、卒業生の絆が更に深まることを願って止みません。